丹波漆に新しい息吹を吹き込む
漆器は海外でもJAPANと称されるほど日本を代表する工芸のひとつです。けれども、化学塗料の発達や生活スタイルの変化から、漆産業は衰退の一途をたどり、しかも国内の漆需要の98%は中国産が占めるという現状です。かつては全国にあった漆産地も減少し現在では岩手県、茨城県、新潟県などわずかとされています。その少ない国産漆生産のなかでも、わずか数%に満たない産地で新たなチャレンジを始めているのが福知山市夜久野町です。
「この館では芸術系大学や専門学校、伝統産業研修を学ぶ中で漆に興味を持ったスタッフが体験教室の講師であり、ショップに展示している商品の多くも彼女たちが制作しています」と語るのは“やくの木と漆の館”館長の小野田さやかさん。彼女自身も芸術系大学卒業後、京都市産業技術研究所の伝統産業技術者研修を受けた際に夜久野の漆掻きを見学したことがきっかけで、丹波漆に惹かれたひとり。研修終了後の2002年からスタッフとして勤務し、2017年より現職に就きました。
「ここのように漆に特化した常設の体験施設がないからでしょうか、体験教室には毎月延べ80〜100名位にお越しいただいています。漆を学んでいる学生から趣味のシニアの方まで年齢も幅広いですし、近くの宮津や舞鶴、京都市内や姫路などクルマで2時間以内の方が多いですが、東京や香川県からお越しになる方もいらっしゃいます」
なかでも金継ぎ体験は人気が高く、予約が取りづらいほどとのこと。
丹波漆の歴史は古く、奈良時代の初期には丹波の漆液が税として納められていたことが文献に記されているそうです。江戸時代には福知山藩の殖産政策として漆の木の育成が義務づけられていました。当地の大切な収入源であり、最盛期の明治時代には500人ほどが漆かきに従事していたといわれます。漆掻き職人も多かったのですが、山陰や中国地方からの漆の集積地としても栄え、夜久野町では漆で蔵が建ったという時代もあったそうです。しかし科学塗料や外国産漆の増加で、衰退期へと向かいます。
もともと農家の夏場の副業として従事する人が多かった漆掻きもその数が減り、今ではわずかに3名ほどが漆の伝統を守っているといいます。
全国的な漆産業の衰退の中で夜久野に漆掻きの技術が残ってきたのは1948年に丹波漆生産組合を立ち上げ、苗木の育成から植林、生産までを科学的な視点で研究し漆産業を守ろうとした衣川光治氏の尽力によるものでした。
2012年に同組合はNPO法人丹波漆として再出発し、貴重な技術を後世に伝えていく活動を行っています。
漆がつなぐ次世代の輪
道の駅農匠の郷やくのに、夜久野地域の漆の文化と魅力を伝える施設として2000年に開館した“やくの木と漆の館”。2017年にはNPO法人丹波漆と組んで丹波漆プロジェクトが発足。丹波漆を使った商品開発や情報発信を強化しています。
金継ぎ教室の講師として館に通う内に、夜久野に移住してしまったのがスタッフの平岡明子さん。関東の芸術系大学を卒業後に“職人になりたい”と伝統工芸の専門学校に通い、京都の漆工房で修行していました。「ここで出会った人たちはみんな移住組です。漆がキーワードで、自然に此処に集まってきたのでしょう」といいます。平岡さんのお気に入りの作品は一閑張りのカードケース。「宮津の世屋和紙という太い繊維を漉き込んだ和紙です。いとおかし工房を営んでいる作家の方にリクエストして自分のために漉いてもらった和紙を、漆の一閑張りという技法を使って紙肌を生かした仕上がりになっています。」
「丹波漆は木から採ったフレッシュなものを使うので、爽やかな木の香りがします」というのは高島麻奈美さん。大学の工芸科で学んだ後に伝統産業後継者育成研修で漆や蒔絵を学び、スタッフとしての制作以外にもグループ展に参加するなど作家活動を平行して行っています。「磨きの工程でツヤが上がりやすいというか、ピカッと光るのが丹波漆の魅力」という高島さん。丹波漆は生漆をもらって自分たちで精製するので、精製の仕方に個人差があり、それも面白みだと制作者ならではの意見も。
スタッフが制作した商品は、【夜久野高原漆器】とネーミングされてブランド化への試みも始まっています。
希少な丹波漆ゆえにすべての制作に使うことができないのが悩みという小野田さん。それでも漆の木を育て、伝統的な漆掻きの技術を継承している人たちとプロジェクトを組み、丹波漆を広めていこうと日々研鑽を積んでいます。希少価値をどう伝えていけるか、漆の木と技術を守る後継者をいかにして増やしていくかなど課題は多いけれど、自分たちのように夜久野の漆に惹かれ、この土地を愛する人たちが少しずつ広がっていけばという、若き漆の伝道師たちの夢を応援したいと思います。
やくの木と漆の館
京都府 福知山市 夜久野町平野2199
0773-38-9226
10時〜17時 水曜定休